「ひ、久しぶり!」

やけに大きな音がなってしまったドアに、あたしも彼も先生も驚いた。少し恥ずかしい。 走り疲れて可愛くないあたしと反対に、彼が示したのは笑顔。 面影のあるその顔は、あたしに遠い思い出となっていた日々を ゆらりと思い出させた。


「久しぶり」









あたしとモト君は、幼なじみだった。 同級生が平均2〜3人のこの小さな小さな町で、 生まれたときからずっと一緒に過ごしてきた。 家族付き合いも濃くて、昔は一緒にお風呂にも入ったし、よくご飯も一緒に食べた。 昔からモト君は絵が上手で、どこかへ遊びに行く時には、 スケッチブックと水彩絵の具が彼のリュックに常備されていた。 モト君が好んで描いていたのは、ネコ。 それからたんぽぽに青い空、たまにあたしの顔も描いてくれたり。 絵を描いている時のモト君は、愛おしそうな顔で世界を見つめていた。 太陽にも負けないきらきらした笑顔で、心と指先が一致した筆先で描かれる世界は、 あたしに見たことのない世界を教えてくれた。

それを、隣で見るのが、あたしの役目だった。 何をするでもなく、言うでもなく、隣で見ている。




ずっとこういう生活が続いていくのだと思っていた。





小学校6年生の卒業式、初めて袖を通した制服に身に纏って、学校へ向かうと、 モト君ひとりだけ違う制服を着ていた。 おはようも言えなくて、代わりに出た言葉は、どうしたの?  返事は苦笑いの様な微笑。 それから先生が「卒業おめでとうございます」の後、 モト君が都会の中学校へ行くことを告げた。 将来、絵を描いて生きて行くには、今から立派な先生に習うべきなんだと、 都会に住むモト君のおじいちゃんに説得されてのことだそうだ。


長い間、片時も欠かさずに一緒にいたモト君は、いなくなる。


それからあたしは上手に目を合わせられなかった。 卒業という旅立ちの歓びや悲しみなんか、どこか遠いところへいってしまって、 モト君がいなくなることへの悲しみだけで、あたしの胸は一杯になった。
どうして言ってくれなかったの、モト君。 あたしを置いて行っちゃうの?  責める言葉しか思いつかなくて、 涙はとまらなくって鼻水もひどくて、 買ったばかりのYシャツはびしょびしょに濡れた。 あたしの身体はひんやり 熱をうばっていった。




春休みはどこへも行かなかった。 家の中で、ずっと進まない宿題とにらめっこ。 何をしていてもつまらなかった。何をしていてもモト君のことしか考えられなかった。

憂鬱の春休み中に一度だけ、モト君が、おじさんおばさんと一緒にうちに挨拶しに来ていた。 お母さんに何度も「リンー、降りてきなさいー」と叫ばれたけれどあたしは行けなかった。 痛む胸を押さえつけるのに精一杯で、2階から耳にはいってくる会話を受け流すことしかできなかった。 主にうちのお母さんとモト君のお母さんの会話だったけれど、 最後に言った「お世話になりました」モト君の一言で全てが終わった。 聞こえた続きは足音とドアの閉まった音、遠くの車の音。 それから、あたしとモト君が会うことはなかった。




中学校の入学式は、今までの倍の生徒数に驚いた。 友達が一気に30人以上増えて、今までとは違うことばかり。 図工は美術になって、算数が数学になった。 毎日制服、たまに学校指定ジャージに身を包んで、 慌ただしく過ぎていく毎日の中に揉まれて、モト君のことを思い出す時間が減った。 モト君のことを知らない女の子達とおしゃべりしたり、 モト君じゃない男の子に触れて話して、キスもした。





共に過ごした頃とは比べものにならない毎日の中で、いつのまにか5年が経った。 高校3年生 春と夏の間、きっとあたしはもうモト君の知らない人になっている。


少し暑苦しくなり始め、周りが必死に受験勉強をしている最中、 あたしはどうも集中できずに、何か物足りなく感じている。 目標もうまく見つからなくてこのまま大学へ進学することが正しいのかどうかもわからない。 大学はさすがにこの小さすぎる町にはなくて、 もうすぐで高校もなくなるんじゃないかって心配されている。 ぼんやりとした未来を描けずに、黒い闇だけがあたしの背中を不安定に押していく。
そんな時、うっすら思い出す幼いあたしと少年。 夢を追いかけるためにこの町を出て行った彼は、今どうしているのだろう。 あたしには彼のような夢はない。ため息が零れては消える。




いつもと変わらない放課後、お母さんからのメール。

"モト君が帰ってきてるって。小学校にいるらしいわよ"

一緒に喋っていた友達に「ごめん、急用」と言って慌てて学校を飛び出した。 鞄の重さも忘れて、ローファーの走りにくさを少し恨んで、下り坂を走り抜ける。 桜並木はいつの間にか緑の葉が茂っている。もうすぐ、夏が 来る。










久しぶりの小学校、においは昔と変わっていない。 靴を脱ぎ捨ててスリッパも履かずに、ハイソックスでぺたぺた走る廊下。 夕日が差し込む、思い出の溢れすぎている景色。 黄色い職員室のドアを思い切り開くと、ドンっとやけに大きな音が鳴る。 失敗した、と思いつつも、目はこっちを見ている男の人から逸らすことができなかった。


「ひ、ひさしぶり」


少しうわずった声で汗まみれのあたしは笑う。可愛くない笑顔。


「久しぶり」


モト君は笑った。あのころと同じ笑顔で。低くなった声で。
小林先生は、あたしとモト君の頭を撫でて、揃ったなあと幸せそうに笑った。白髪が増えた気がした。 時間は経っているのに、先生にとってはいつまでも生徒で、変わらずに撫で続けられた。 お茶も出してもらって、しばらく話した後、「そろそろ俺は仕事をするからお前ら帰れよー」と言って学校からあたしたちを追い出した。


ふたりきり、こんなに久しぶりで、もう話す言葉が思いつかなかった。 髪が茶色になって、少しだぼだぼなダメージジーンズに、かわいいTシャツ、ベスト。 すっかり変わっちゃったなあ。お洒落だなあ。引け目を感じてしまう。



「リン、元気だった?」
「うん、モト君は?」
「うん、元気だったよ」
「……モトくん、変わったね!」
「そう?」
「大人っぽくなった!」
「そりゃ、5年もたってるからね」
「そっか、そうだよね、」
「…リンも」
「ん?」
「うん、キレイになった」
「何言ってんのー!モト君ってば」


すぐ途切れてしまう会話、あたしは必死に次の言葉を探す。


「この町、5年ぶりくらい?」
「うん、そだね。すっげ久しぶり」
「どこか、行きたいとこある?」
「でもなあ、なんか色々変わりすぎじゃね?もーよくわかんねえ」
「そっかあー」
「リンが案内してよ、この町」

無邪気に笑う彼に、あたしはいいよ、と返事をした。



モト君がいた時には無かったコンビニ、二人でよく来た川沿い。 かわいがっていた学校の近くのタロウを見ると、モト君はゆっくり頭を撫でた。 「お前もすっかりおじいちゃんになったなあー」なんて言って。 モト君と歩くと、忘れていた思い出が一つ一つ丁寧に思い出される。 道の砂利ひとつでさえ、懐かしく想えた。 とんぼを捕まえたり、小林先生の家をピンポンダッシュしたり、 自転車で川に一緒に落ちてべしょべしょになったり。


「モト君、どう?都会は」
「すごいよ、なんでもある、人が沢山いる。でもたまに孤独になる」
「なんで?」
「俺より絵うまい人は、沢山いるから、かな?」
「そう、なの?」
「うん。世の中は広いっ!リンは、どう?」
「モト君が羨ましいよ。あたしも夢とか目標持って胸はって生きたいなって思う。」
「ないの? 夢とか目標」
「うん、よくわかんない。」
「俺ずっとリンは動物園で働くんだと思ってた」
「へ? なんで?」
「俺がいつも描いてたネコは、リンがあやしていたからだし、タロウだってリンにすぐ懐いたじゃん」
「…そうだっけ?」
「そうそう、才能あるよ。動物好きなんじゃなかったっけ?」
「うん、動物は昔から好き。ってよく覚えてたね」
「さっきタロウ見たとき思い出した。」


そう笑うモト君は、背丈も顔も声もずいぶん変わったのに、何も変わってなかった。 世界を愛おしそうに見て笑うあの瞳のまま。 とっくに沈んでしまった太陽の代わりに月が笑う。今日はやけにまんまるだ。 口笛を吹くモト君のそのメロディは、昔よく一緒に聞いた曲。 5年で忘れていたものは、全部モト君が持っている気がした。 あたしもモト君と一緒に、群青の空に口笛を鳴らす、笑いながら。



それからあたしの家で、晩ご飯を食べた。 お母さんは張り切って、ちらし寿司を作って待っていた。 相変わらず紅ショウガと椎茸抜き。 懐かしいと言って、3合も炊いたご飯を、彼はほぼ一人で食べきってしまった。 お母さんは大喜びで「毎日来てちょうだい」と楽しそうに言った。 毎日3合一人で食べられたらうちの家計は火車だよ、お母さん。



体温が上がって、頬が火照り始めたので、外で散歩をする事にした。 行く先はモト君のリクエストで公園。 さっきよりも、距離を少し縮めて歩いてみる。 たまに手がぶつかると、二人してごめんなんて言って。


「星、キレイだよな」
「都会は星、ないの?」
「うん、ほんとに久々に見た。夜空ってこんなにキレイだったんだな」
「…モト君、そっちで何かあったの?」

気になっていた事を口に出して訊ねてみる。 たまに見せる沈んだ表情の訳を知りたかった。

「忘れ物、してた」
「忘れ物?この町に?」
「そう。リンとちゃんとさよならしてなかったから」
「、っごめんね。ちゃんとさよならできなくて」
「ううん。俺言おうと思ってたのに言えなくて。怒るのも当然だなって思ってた」
「怒ってはいないよ。ただ、悲しくて、さよならが信じられなかっただけ」
「そっか。じゃあ改めてこれ、受け取ってよ」

彼があたしに渡したのは、くしゃくしゃの袋。少し色褪せている。 「中、開けて」と言われたので従うと、きらきらビーズのブレスレット。

「なんか今となってはすげーださいけど、一応もらって?」
「ううん、かわいいよ!好み!…いいの?」
「そう言ってくれて嬉しーです、」


「でも、なんで今?」
「え?」
「5年後の、今?」
「どういうこと?」
「気になってたなら、2年でも3年でも良かったんじゃないかなって。 でもモト君は5年後の今日に来た。 どうして?」
「…言うべき?」
「モト君が良ければ、聞きたい。」

少ししつこいような気もしたのだけれど、聞いておきたかった。 余計なお世話と言われても、関係ないと突き放されても。


「父さんと母さんが、離婚するんだって」
「え!?」
「それ聞いてから、俺全く絵描けなくなっちゃって、食事も喉通んなくって、 今日久しぶりにちゃんとしたご飯食べたよ」
「…離婚の理由は?」
「よくわかんない。俺、離婚ってことうまく受け入れられてない。 大人だし、父さんは男で、母さんは女だから、受け入れるべきなんだろうけど、 俺はずっとこうやって、生きていくんだと思ってたからさ。」
「ケンカしてたとかっていうわけじゃないの?」
「ううん、全くない。だからこそ余計ね」
「そっか…」


あたしがうつむくと、モト君は困った顔でごめん、と言った。 悪いのはモト君じゃないのに。そんな顔して欲しくないのに。


「で!すっげーへこんで、正直全部イヤになってたけど、なんかまた頑張れそう」
「ほんとうに?」
「うん。リン、ありがとう、」
「ううん、こちらこそ、ありがとう」
「…何を?」
「モト君に追いつけるように頑張る。あたしも夢かなえるよ」
「よっしゃ、頑張ろーぜ!」


それから、さっきの暗い空気がどこかへ行ってしまったかのように、 小さい鉄棒、低いブランコ、すこし狭い滑り台、 誘われたけど乗れない乙女心複雑なシーソーも、 どうやって遊んでいたか思い出せないジャングルジムも。 二人を笑わせるには十分な、小さな公園。 真ん中にある街灯に付いている時計は午前2時を刺している。 余計なものは何もない、見上げれば星が笑いながら歌ってる。


少し疲れて、狭いベンチに二人ぎりぎりで座る。寄り添い合う。 あたしの左手にはビーズがきらきらひかる。 疲れたね、なんて言いながら話す内容は昔とあまり変わらない気がした。 変わったのは少しだけ大人になった、それだけ。 寒いかも、と言うとモト君は彼の小さなリュックから、パーカーを貸してくれた。 ありがたく借りると、モト君の匂いがした。 匂いに浮かれて、頭をモト君の肩にもたげると、彼は受け入れて手を握ってくれた。 うとうとしていたあたしは、話の途中で、幸せな夢へと足を踏み入れて、ゆく。











ふと目が覚めるとベンチにはあたし一人で、時計は午前6時を刺していた。 身体の節々が凝っていて、疲れはむしろ増えたくらいだ。 隣にいたモト君は、もういない。 あるのはパーカーだけ。まだ、彼の匂いはここにある。

想いにふけると、寂しさに襲われて抜け出せなくなりそうなので、はやく出て行こうと思った。 公園の柵を抜けた道路の足下にはありがとうの文字。そこから広がっていく彼の絵。 一緒にみたタロウ、小林先生、公園のブランコに、うちのお母さん。 その真ん中には、あたし。左手を大事そうに抱えて幸せそうな顔で笑っている。 一生消えないようにしたいのだけれど、アスファルトにひろがる白は、 きっとその辺の石で描いたのだろう。雨で消されてしまう。

モト君、この絵はモト君みたいだね。 ふと現れてあたしを幸せにした代わりに、それ以上の寂しさを置いていく。 朝陽が眩しい、動き出す世界の中で、あたしはさっきまで彼のいた地に触れて、声をあげて泣いた。




アンダー・ザ・ワールド