Honey Butterfly







 誰とも群れずにいつも一人、 色の薄く柔らかなウエーブがかかった髪の毛、 華奢すぎる身体に白い肌、 大きな瞳、薄紅の唇、光沢のある爪。
 彼女の名前は宇野千代。一目惚れ だった。





 正直言って、自惚れじゃなく僕はモテる。 今まで彼女を切らしたことは無かったし、 そのどれもが相手からの告白だった。 僕の隣には、いつもかわいい女の子がいて、それは当たり前で、 そのポジションは誰にとっても憧れで。 適当に笑いあえる感情が「すき」なんだと思っていた。
 でも、そうじゃなかった。僕は恋愛というものを勘違いしていた。 宇野千代に出逢ってからは、どんな子といたって退屈で、 何をしていたって不完全。宇野千代が僕の横を通り過ぎる、 たったそれだけで、息も出来なくなってしまうほどだった。

 心臓が破れそうになるのを必死に堪えながら、震える声と平気な振りをした顔で宇野千代に近づこうとした。 回数を重ねたはずのこの言葉を吐き出すのに、こんなに勇気を使うだなんて、間違いなく最初で最後だ。

「アドレス、教えてくれない?」

宇野千代の大きな瞳が僕を捕らえる。長い睫。僕は身動きが取れなくなる。

「私、ケータイ持ってない。」

 初めて僕に向けられた澄んだ声。 それだけで溶けてしまいそうで、 今の言葉の意味を考えるのと返事をするのにしばらく時間がかかった。

「家に忘れたってこと?」
「ううん、必要のない物は持たないの」
「必要が…、ない?」

この現代社会で携帯電話を必要がないという人を初めて見た。小学生の妹でさえケータイを持っているのに。

「確かに井本くんには理解できないかもね」

僕の名前を呼ぶ声。いちいちドキドキして、さっきからキャパオーバーの嵐。ああ、もう。 じゃあね、と過ぎ去ろうとしている宇野千代を呼び止める。

「必要がないって、なんで?」
「私にはケータイは邪魔なものでしかないから」
「邪魔?」
「余計なものは持たないの」
「どうして…?」
「縛り付けられてたら、飛べないもん」
「え、飛ぶの?飛べるの?」
「ひみつ」

 にこりと笑って彼女はさよならも言わずに去って行った。 相変わらず心臓の音がうるさかった。 目の前を真っ直ぐ歩いていった宇野千代は、ふと立ち止まり、くるっと振り返って、また僕の目の前に来た。


「井本くんさ、トランプの記号で何が好き?」
「…ハート、ダイヤ、クローバー、スペードってこと?」
「そう。」
「…クローバー、かな」
「数字は?」
「2、って宇野さん?」

彼女は楽しそうに笑って、迷うことなくポケットから取り出した一枚のトランプを僕に渡した。

「ばいばーい」

 ぱたぱたと再び彼女は僕の前から消えた。 クローバーの2だった。 最初から最後まで意味がわからなかったけれど、宇野千代はさっき即座に僕にトランプを渡した。 最初からこれしか持っていなかったのだろうか。 …なんだったのだろう。





 翌日の席替えで、僕は宇野千代の隣の席になった。 なんたるラッキーボーイ。 相変わらず彼女は誰とも群れたりはしなかったのだけれど、僕とはよく話すようになった。 強い憧れは、ゆっくりと着実に愛にかわり、彼女が恋人になることを心底望んでしまっていた。

「宇野さん、いつもお昼どこで食べてるの?」
「どうして?」
「一緒に食べない?」

ふわり、音が聞こえた。


「いいよ」

 昼休みまでの時間が長くて長くて、どうしようもなかった。 早弁も我慢して、マスカット味の飴で空腹をなんとか凌いで、やっと4時限目終了のチャイム。 なんとなく目で合図して、彼女に連れて行ってもらったのは音楽室の裏。 気持ちの良い日向。ここへ来たのは初めてだった。

「へー、こんなところよく知ってるね」
「うん。特別な場所なの。内緒だよ?」

僕は静かに頷いた。 待ちに待ったお弁当を開くと、宇野千代は目を見開いて「そんなに食べるの?」と訊ねた。

「普通だよ」

彼女が持っているお弁当箱は掌よりも小さいサイズ。

「それ、だけ?」
「うん」
「死ぬよ、絶対!」
「死なないよー、生きてるもん」
「なんでそんな少ないの?」
「飛べなくなっちゃうでしょう?」

再び出てきたその言葉に僕はまたクエスチョンマーク。

「飛ばなきゃいけないの?」
「だって飛べない蝶はいないじゃない」
「蝶?」
「そう、わたし蝶になるの」
「…なれるの?」
「なれるよ。」
「宇野さんはなんで蝶になりたいの?」
「意味なんて必要ないよ」
「へー、すごいね」
「そうかな?井本くんは?」
「え?」
「何になるの?」

 僕が将来の夢をみるのと同じように、彼女は蝶になることを夢みているのだろうか。 君を抱きしめられる人になりたいと言ったら汚いと軽蔑されるだろうか。嫌われてしまうだろうか。

「井本くん?」

 しばらく考えていた僕は、彼女の声で現実へ戻る。 まだわかんないかな、なんて曖昧な返事を薄笑いで返した。 少しの沈黙の後、彼女が「そういえば」と口を開く。

「井本くんの下の名前、満って書いてミツルだよね?」
「そうだよ」
「こんどからミツって呼ぶね。」
「あ、わかった。じゃあ僕も宇野さんのこと千代って呼ぶよ」
「うん。よろしくミツ。」
「こちらこそ、千代」

 お互いに確かめ合うように名前を呼んだ。 やわらかに鳴る心臓が心地よい。心臓が脈打つたびに、好きが増えていく。 気持ち良い日差しの下で、胸が一杯になった。 泣きそうになっているのを見られていないかと、千代の方をちらっと見ると、 彼女は微笑んで、それからふと立ち上がったと思ったら顔をゆっくり僕に近づけ、頬に口づけをした。
 一瞬のことでわけがわからなかった。 けれど彼女は少し意地悪く微笑み、先行ってるねと軽い足取りで戻っていった。  熱い頬に触れてみる。今更ながら、為す術もなく赤面。 彼女はどんなつもりで僕にキスなどしたのだろう。
 置いてけぼりをくらった僕は、しばらく思いにふけた後、 教室まで戻って彼女に「どうして」と尋ねるつもりだった。 けれど教室に千代はいなく、鞄もない。それから5時限、6時限と続いたが、彼女は戻ってこなかった。 放課後になり、帰り際廊下で会ったユカリに「宇野千代、どこに行ったか知ってる?」と聞いても「知るわけないじゃん」と笑われた。

「それよりもミツル、今日遊ぼーよ」
「ごめん、無理」
「最近ミツルつまんないんだけど、付き合い悪くない?」
「ま、そんなもんだよ」
「宇野千代、そんなにいいの?」
「え?」
「あたしあの子きらーい。あの子絶対、自分が一番可愛いって思ってるしょ」
「まあ、少なくともユカリよりはかわいいよ。」

 じゃーな、と適当に交わして教室を出た。 後ろでむかつくとか言う声が聞こえたけれど気にしない。 もう僕には千代しかいないんだな、そう思ったら笑えた。無性にわくわくした。恋って最高に気持ちいい。





 それから3日間、千代は学校に来なかった。 担任は「家庭の事情でしばらく休むそうだ」と言っていたけれど、 どうしてもしっくりこなくて、 なかなか口を開かない担任を問いただしてみたところ、ため息と一緒にやっと伝えられた。

「宇野はいま入院してるよ」
「どこに?!なんで!?」
「総合病院。理由は言えない。わかったか?」

 いてもたってもいられなくて、4時限にも出ず、病院まで走った。 入って一番最初に会った看護士さんに「宇野千代いますか、どこですか?」となるべく冷静を装って尋ねると、 丁寧に場所を教えてくれた。少し不細工だなんて思ってごめんなさい、 心の中で真剣に謝った。
 病室は306。いくつかの名前の下に「宇野千代」の文字。 大きく深呼吸をしてからドアをゆっくり開く。 奥のベッドに、ずっと外の景色をみている、包帯だらけの少女。

「千代…?」

ゆっくり振り返って、傷だらけの顔で笑い、聞きたかった声。

「ミツ」

笑顔はやがて壊れ、彼女の頬に涙がつたう。

「ミツ、…ミ ツ、。」
「千代、どうしたの?なにがあったの?」
「わたし、蝶になれなかった。なれなかったよお」

 そう言われて、ひどく安心した。 僕はいつのまにか彼女が本気で蝶になってしまうのではないかと思っていたのだ。 今思えばそれすらもファンタジーだ。 本気で蝶になれると信じていた彼女を、なってしまうのではと信じていた僕を、笑ってくれて構わない。 僕自身も酷く滑稽だと思った、だけれど僕は笑わない 笑えない。
 子供のように泣き、ひどく震えている彼女に、ゆっくりと手を伸ばして抱きしめる。 大丈夫、拒絶はない。 そして先日僕が千代にされたように、頬に。それから額に瞼に、唇に、そっと口づけをした。涙の味がした。





 それから僕は、毎日病院へ通った。 毎回安く小さな花束を持って行くと、千代は大げさなほど喜んだ。 ある日、ふと花を見ると何枚もの花びらがちぎられていた。

「千代、これどうしたの?」
「食べてみた」
「ええ? …おいしかった?」
「ううん、ちっとも。」
「そう…」

「ミツ?」ゆるりと、僕を呼ぶ彼女の声。

「わたしね、蝶になれなかった理由、分かったよ」
「理由?」
「うん。なる必要がなくなっちゃったんだと思う。蝶じゃなくても生きていける風になっちゃったの」
「どうして…?」
「ミツと出逢っちゃったから。花の蜜をすう必要がなくなっちゃったから。」
「、ごめん、なんか。」
「ふふ、謝らなくていいよ。それにお花おいしくない。ミツとちゅーしてる方がよっぽどいいよ」
「はは。じゃあもう千代は蝶にならなくていいの?」
「うん、ミツさえいればいいよ」

そう笑う君を愛しいと思う、初めての感情。 あまりにも幸せで、くすぐったくて泣きそうになる。

「千代、」
「ん?」
「なんでもない」

 真っ白いベッドの上で唇を何度も重ねる。 互いを確かめるように、求め合うように。 僕らはこの世界で、人間として生きてゆくのだ。その意味を存在に変えて、それをいつかきっとふたりでを幸せにする。