一年ぶりに会った雪は少しきれいになっているように見えた。 目の前に座ってお酒に頬を少し赤らめながら俺の話を聞いて、 雪の仕事の話もした。いつもの昔話にもなる。

「豊が結婚したって、聞いた?」
「聞いたよ、奥さんきれいって」
「うそ、見た?」
「わたしも結婚するの」
「へー」

持ち上げたジョッキの手が止まった。なんて言った?

「結婚するの」

いつもの会話のなかに突然雷のような雪の言葉。 雪のいつも通りの顔は、俺の顔を見て笑顔に変わった。 「優しい人なの」と言った寂しいような、だけれども幸せに満ちた顔に 祝いの言葉よりも前に「どうして」と吐き捨ててしまった。 きみの隣は俺だと、きみと結婚するのは俺だとばかり思っていたのに。 確かにそれを言葉にしたことはないけれど愛していた日々も確かにあったのだ。

「幸せになるの」
「だれと、」
「仕事先の人よ」
「、そう なんだ」

喉の奥から「おめでとう」を引きずり出してやっと言葉にした。 雪は笑った。

「ありがと千ちゃん」







それから千ちゃんは飲んで飲んで飲み続けた。 わたしが何度止めても祝い酒だと言って聞かなかった。 「どんな男だ」と彼の隅から隅まで尋ねてきたけれど、 名前だけは決して聞こうとはしなかった。
千ちゃんは同じ言葉を何度も口にしようとして、その度に 口をつむんだ。 そうね千ちゃん、わたしもあなたと結婚すると思っていたの。 あなたに抱かれていた夜は昨日のことのようなのに、ね。
目の前でまだお酒を頼む千ちゃんをもう止めない。 わたしも赤いワインを飲み干して、もう一つお酒を頼む。 酔っ払ってしまえばいい夜もある。

「千ちゃん、」
「ん ?」
「楽しかったね」
「俺、」
「わたし千ちゃんのこと好きだったよ」
「っ、」
「そんな顔しないで」

触れたら壊れてしまいそうな顔で、わたしを見つめる。 言葉にしたことはなかったけれどわたしと千ちゃんは なにか強い見えないもので繋がっていて、 愛があることを知っていたけれどわたしが選んだ道の横は 別の人だった。 あのころはそんな未来になるだなんて想像もしてなかったのにね。

「彼を悪者にしないで、ちゃんと幸せになるんだから」
「そんなつもりじゃない」
「そんなつもりな顔してるくせに」
「どうしてそいつなんだ」
「どうして俺じゃないんだって意味?」
「…そうかもしれない。」
「ふふ、そうね。どうしてかしらね。」







酔っ払ったおぼつかない足を雪に抱えられて 部屋のベッドに横たわった。玄関の明かりだけつけたまま 手渡されたお茶を飲み干すと「飲んだ?」と 差し伸べられた雪の手、薄暗い中で白く輝く君の手を グラスではなく俺の手で受け止める、引き寄せてキスをする抱きしめる。 倒してしまった横たわる雪は俺のキスを一度だけ受け入れたあと、 笑って首を横に振った。
会わなかったのなんてたった一年で、あっという間の一年で、 それまでの間にそんな話なんてしたことがなかった。 こうなるって知っていたらその前に俺がきみに愛してると言ったなら 後悔が胸を頭を締め付けて、雪を抱きしめる腕が緩まない。

「千ちゃん痛いよ、」

「…千ちゃん?泣いてるの?」

見上げる雪が俺の頬を撫でる。そして笑う。 「もう決めたの」、小さな雪の声が震えている。 力なく解けてしまった腕の中の雪は眉を下げて、笑う。 瞼のすぐそこまである涙が見えて、 胸がいっぱいになる。だけど俺にはごめんも、愛してるも、今はもうなにも言えない。 このまま抱いても抱かなくても、後悔するだろう、いっそ壊してやろうか、 誰を?、雪を?俺の腕でこんなに胸いっぱいに必死に笑う彼女を? そんな彼女を選んだ男を?いっそ自分を?、どうしたってもうどうしようもないのに。

「ゆき、」
「ん?」
「願ってる。」
「…うん、うん。」








これ以上ここにいるべきではないと知る自分と、このままここにいてしまいたい自分が、 ぐるぐる迷わせる。何度悩んだだろう、彼と体を重ねながら 何度千ちゃんを想っただろう。 このまま攫ってくれたらと思う、けれど彼が私を愛してくれているのも知っている。 決めたの、に。彼と幸せにならなければ、私も千ちゃんも幸せになんてなれない。 壊れるまできつく抱きしめる背中を私は抱き返すこともできずに、 涙がつたう頬を撫でるだけで精一杯だった。願ってると言ってくれた 千ちゃんに必死に頷いて、もう迷うことすらできないまっすぐな道へ 進むしかないのだと知る。 ごめんねも、ありがとうも、私は発してはいけない。頷くことだけが唯一。

そうして私は千ちゃんの家を出た。 最後は私も千ちゃんも笑って、ばいばい、またね、御伽噺は終わりを迎えた。 幸せだったと思う、それ以外ないと思う。 千ちゃん、願ってる。願ってるよ、それから願っていてね。 ゆっくりと扉は閉まる、エンディングを迎えても音楽はかからない、 なにも変わらない誰も知らない同じ景色。 ドアノブが小さく震えて、振り向かずに歩く 滲む街並み。