イヤフォンのシリコンゴムがいつの間にか無くなっていた事が始まりだった。
聖也は音楽プレイヤーを通勤で使わないから、とりあえず借りようと思って 彼のを外して私のに付けた。朝、まだシャワーを浴びている聖也に「先に行くねー」 と声をかけて家を出た。
窮屈な満員電車の中、聖也からの電話。出れるわけないじゃない、と 足を何度も踏まれる満員電車へのイライラにも重なって無視。 鳴り止んだころに 何? とだけメールを入れる。 イヤフォンのゴム とだけのそっけない返事。 使ってる って答えたらまた電話。あーうるさい。 やっと着いた駅で押し出されるように降りて、かけ直してとのメールの通り聖也に電話。 どうしてだとか、だらしないとか、自分勝手なそういうところにいつもうんざりしているとか。 よくもまあ朝から人の気分を害してくれますこと。 返事もせずに切った。電源から切ってやった。
たかがイヤフォンじゃない、いつもは使ってないのに偉そうに。 昨日の聖也にだって、一週間前の聖也にだって私は我慢していたのに。 強くヒールを踏み鳴らしてデスクに座る。 黒いデスクトップに映る自分の鬼のような顔にギョッとして、眉間によっていた皺を伸ばす。 ため息をついてコーヒーのプルタブを持ち上げる。

好きで好きで一緒に暮らし始めたのに、今じゃこんなくだらないケンカ。 両方の親から急かされる 結婚 の二文字。 気持ちばかり焦って遠のくばかり。 こんなはずじゃなかったのに。一緒に暮らす前はケンカなんてほとんどしたことがなかったのに。 近頃の毎日のようなケンカにまた眉をしかめる。好きってなんだ。なんだったっけ。


うまくいかない仕事にもイライラして、早めに切り上げる。 帰りの電車に乗るけれどそれにも疲れて途中下車、二子玉川駅。 ベンチに寄りかかると目の前の電車は流れて現れる大きな夕陽。 オレンジ色がホームにいる私のことを大きく包み込む。

初めてデートした日もここにいた。ここで聖也を待っていた。 待ち合わせの時間になっても来なくて、迷惑だったらどうしようと思って心配のメールも送れず 、不安で一人夕陽を見ていた。 やっと来た聖也の顔を見ると、怒りよりも嬉しさで溢れた。 息を切らして「これを買うのに迷って遅れた」と照れくさそうにネイビーのマフラーをくれた。 思い出して頬が緩む。たったこれだけの思い出で私は今だってこんなに笑顔になれる。
夕陽を遮るようにやって来た電車にもう一度乗り込む。 そのころ既に付き合って何年も経っていたのに、暮らし始めた家に帰るのが楽しみで、 ついドキドキしてしまって、電車のガラスに反射する前髪を何度も手櫛で直した。 今の私も同じように直す。あの頃より伸びた前髪。
何がダメなんだろう、何でこうなっちゃうんだろう。 ちゃんとこんなに聖也のことが好きなのに、私はすぐに忘れてしまう。 こんなに大切な気持ちを、簡単に忘れてしまう。 うつむいて零れる涙を隠して、電車を降りた。 スーパーでイヤフォンのゴムをこれでもかって程買って、聖也の 好きなハンバーグを作って待っていよう。 一緒に初めて食べたあの日の夕飯と同じように輪切りにした玉ねぎと目玉焼きも添えて。 おいしいって笑ってくれるといいな、嬉しいな。


ただいまとおかえりの幸福度数



階段をどたばたと駆け上がる音は玄関で止んで、少しの間の後 ガチャリと開く。聖也の困った顔があった。 大きく口を開いたから、ビクッと構えたけれど「ケータイ、」と小さくつぶやいただけだった。

「あ、」
「電源入れろよ」
「忘れてた。」
「何かあったのかと思った、」

長いため息と荷物をおろしながら聖也はテーブルに並ぶご飯を見て笑って、 私は聖也のおろした荷物を見て笑った。

「どうしたのその袋」
「うるせーな」

素直になれない2人だから、笑って美味しいご飯を食べよう。 聖也の袋には近所の美味しいケーキ屋さんのマーク。 中身はきっと私の好きなガトーショコラと聖也のモンブラン。 同じ数を買ってきたイヤフォンのシリコンゴムにまた笑って、ちょっと泣いた私を ぎゅっと抱きしめる聖也を、同じ強さで抱きしめ返す。
大丈夫。私たちはこれからもやっていける。 「おいしい」と笑ってくれた聖夜を見て、「嬉しい」と私も笑った。